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無の状態だったから、あれこれ吸収できてチャレンジして今がある
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vol. 12 2020 Oct. 14th

原由美子さん (スタイリスト)

2 0 2 0年3月3日、おかげさまでa n a nは創刊5 0年目を迎えました。 それを記念して、ご縁のある方々にインタビュー。 印象に残っている表紙や誌面など、思い出話を伺います。

ファッションが好きだから、 大変でもやるしかないと。 原由美子(スタイリスト)

本格的にスタイリストとして仕事を始めたのは、アンアンが創刊して2年が経った1972年だったと話す、原由美子さん。
「大学の仏文科を卒業してから日仏学院で会話の勉強をしていた頃、人を介して当時の平凡出版『アンアン・エルジャポン』創刊準備室で、フランスのELLEから届く資料を整理できる人を探していると。それがこの世界にはいるきっかけです」
資料といっても、その中身は時にヘルムート・ニュートンが撮影したポジフィルム(複製でなく)があったり、記事のタイプ原稿やレイアウトを写した紙焼きプリントなど、大切なものばかりだった。
「いただいたポジを整理し、仏訳をし、当時のアートディレクターの堀内誠一さんの指示に従い、作家の原稿を受け取りに行くこともありました」
初めてスタイリングで誌面に関わったのは、1972年の原さん自身の引っ越し。その引っ越しの現場でモデル撮影をした、モノクロの誌面だった。
「編集の方に生活のひとコマのようなファッションページをと言われ、毎回テーマを変え、スタイリングして私が文章も書く、通称〝おはなしファッション〟と呼んでいた連載ページ。引っ越しの後は、『今、何が欲しいの?』と聞かれ『部屋に椅子が欲しいです』と言えば『それなら、椅子を探す、というテーマでページを作りなさい』と言われたり」
雑誌に掲載する服を借りるといっても、その頃のファッションメーカーにはプレスという部署も少なく、電話をかけて雑誌の名前、テーマ、発売日を伝えて洋服を借りるのは、至難の業だった。
「少しずつアンアンに載ると反響があると言われ始め、企画やプレスの部署もできて、スタイリストが仕事をしやすい環境にはなっていきました」
1973年には、83着の服を抱えてのアメリカロケ、そこからニューヨークを経由して、モデルの秋川リサを連れてパリに渡り、初のパリコレ取材。
「もう『やらなきゃ』というよりやりたかったから、できたんでしょうね。アシスタントもまだいなかったので、とにかくなんでも自分でやりました」
その後、アンアン、クロワッサン、その他の女性誌から映画、広告、カタログ、ファッションディレクションと、原さんの仕事は広がった。
「準備室に通うようになった時、無の状態だったから、あれこれ吸収できて、できないと怖がらずにチャレンジもして、今があるのかもしれませんね」

思い出のanan

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“スタイリスト初仕事”は、私物を用意した着物の撮影。

日舞を習っていたことで、私物の着物を用意することになった原さん。モデルの秋川リサさんが手に持った黄色の鞠は「イガ付きの栗を探して。なければ鞠を」とのカメラマンの要望で撮影当日に用意した。(1970年10月20日号)

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偶然、走っていたD 51との記念すべき奇跡の一枚。

新幹線で岡山に行き、伯備線に乗り、ゲリラ撮影し
た企画。「撮影許可も取らず、モデルのヤッコ(山佳泰子さん)が汽車や駅のトイレで服を着替えてくれたから」と、原さん。原稿も原さんが書いた。(1972年7月5日号)

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初のパリコレで受けた刺激をa n a n の企画に即提案。

初のパリコレを見た後、ショーで見た「ラップジャケットをテーマにしたい」と提案し、実現したファッション特集。ロケ場所は渋谷のパルコの1階にあった、当時は珍しかった『カフェ・ド・ラペ』。(1973年10月5日号)

はら・ゆみこ スタイリスト、ファッションディレクター。1945
年生まれ。『アンアン』『クロワッサン』『エル・ジャポン』『婦人公論』『マリ・クレール日本版』などで活躍。著書に『原由美子の仕事 1970→』(ブックマン社)など多数がある。

写真・北尾 渉 取材、文・今井 恵